ニグロリーグの偉大な投手であり、野球殿堂のメンバーでもあるリロイ・”サッチェル”・ペイジが
長い闘病生活の末に死去した。ペナントレースが夏を前に、これから佳境に入ろうとしていた
1982年6月8日、このニュースが全米に報じられた。それは、日本にも流れてきた。
ペイジは、”伝説の名投手”といわれた男で、それだけに人々の関心を集めた。
ペイジとはどんな男だったのか。
アラバマ州に生まれ、11人兄弟の一人。マクミラン発行のエンサイクロペディアによると、
生年月日は1906年7月7日となっているが、本当のところは”不明”である。
ニックネームの”サッチェル”は、”大きな旅行カバン”の意味である。子供のころ、赤帽の
アルバイトをやり、細い体でいくつものカバンを持ってあるいていたところから命名されたらしい。
野球生活のスタートは1926年で、ニグロリーグのチャタヌガ・ブラックルックアウツ。
以降、10チーム以上を渡り歩き、中南米、キューバなどでも投げたが、記録のほとんどは
残っていない。現在の記録では1933年、ピッツバーグ・クロフォーズで42試合に登板、
21連勝を含む31勝4敗。この間、62イニング連続無失点、1試合平均15・4奪三振だった。
当時の大リーグは白人だけで、黒人はニグロリーグでしかプレーできなかった。
それでもシーズンオフは練習試合で大リーグとニグロリーグが対戦した。右腕ペイジの
速球は時速160`以上で、対戦したジョー・ディマジオやボブ・フェラーなどは「速すぎる」
と、その凄さを認めていた。
1947年、ジャッキー・ロビンソンが黒人として初めて大リーグに入ると、翌48年にペイジは
42歳でありながらインディアンスに入団。この年、2完封を含む6勝1敗の好成績でワールド
シリーズでも1イニング投げた。52,53年にはオールスター・ゲームにも出場。その後、
ニグロリーグに戻ったが、65年に59歳でアスレティックスに入り、3イニングを投げている。
投法としては、上、下、横とどこからでも投げたということである。1971年に殿堂入り。
ニグロリーグにはこんなすばらしい選手がまだまだ大勢いたという。
バド・フォーラーという黒人が1872年に初めて黒人にベースボールを開放した。
13年後の85年に「黒人野球連盟」を設立した。1900年代に入ると、一層盛んになり、
1902年にはルーブ・フォスターという投手が51勝をマークしたという記録もある。
1903年は大リーグが初めてのワールドシリーズを行った年だが、一足先に黒人が
ワールドシリーズを済ませている。
まだ人種差別の厳しい時代で、ニグロ・リーグはいろいろな辛い目にあいながら各地で
興行を行った。そんな折にペイジは、ホテルやレストランで黒人の入場を拒否されると
その町でのプレーを拒絶したという話も残っている。
大リーグの関係者は早くからニグロ・リーグに注目していて、何人かのオーナー達は
なんとか入団させる手はないかと考えていたが、いざというときになると、人種の問題で
成功させることができなかった。ニグロ・リーグにはそれほどの人材がそろっていたと
いうことの証明であろう。
ニグロ・リーグで活躍した選手で野球殿堂には、9人が入っている。ペイジをはじめ
ジョシュ・ギブソン、バック・レオナード(ともに72年に入っている)、モンテ・アービン(73年)
クール・パパ・ベル(74年)、ジュディ・ジョンソン(75年)、オスカー・チャールトン(76年)
マーティン・ディーゴ、ジョン・ロイド(77年)という顔ぶれである。
この中でギブソンは通算本塁打が800本で、ギネスブックに「世界で最も本塁打を打った男」
として載っている。ヤンキースタジアムの左翼場外にたたき出したといわれている。
アービンは49年から56年まで大リーグに在籍した。その他の選手は大リーグが黒人に
門戸を開放した時には、年を取りすぎていて「夢」を果たすことができなかった
実力者ばかり
であった。
やがて、ニグロ・リーグは大きな転機を迎えることとなる。1947年にジャッキー・ロビンソンが
ドジャース(当時はブルックリン)のブランチ・リッキーと大リーグ入りの契約を結んだのである。
その年、151試合に出場して・297、29盗塁でタイトルを獲得してナ・リーグの新人王に選ばれた。
49年には・342で首位打者、37盗塁で盗塁王、そしてMVPを獲得した。
ロビンソンはしばらくは「ニガー」と呼ばれ、かなりいやがらせを受けたということである。しかし、
それらをはねのけ、いつもハッスルプレーでチームの勝利に貢献した。56年までの10年間を
第一線で働きつづけ、通算打率・311を残した。引退後は政治活動に力を注いで
黒人のために
頑張った。
ロビンソンは今でも一野球人だけでなく、一人の偉大な人間として高く評価されている。
今年(82年)は、ロビンソンの記念切手が発行され、モントリオールのオールスターゲームでは
ロビンソンの未亡人が特別招待された。また77年の新装ヤンキースタジアムでの球宴は、
「ロビンソン・デー」として行われている。
このロビンソンの大リーグ入りをきっかけにして、続々とニグロ・リーグから優秀な黒人が大リーグに
入団していった。中日でプレーしたラリー・ドビー、ドン・ニューカム、さらにロイ・キャンパネラらである。
この現象は大リーグが黒人をエキスにして実力向上を図った結果になり、逆にニグロ・リーグは
当然、人材不足になり、この為50年代に一気に衰退してしまった。
★ニグロリーグッズ!
←ニグロリ−グジャージー(Atlanta Black Crackers)
1932、1938年の2年間だけ存在したチーム。
本拠地はアトランタで歴史のあるポンセ・デ・レオンパーク。
1938年後期にニグロ・アメリカン・リーグ制覇。
トッププレーヤーとして
ナット・ピープルス、ロイ・ウエルメーカー、ジェームス“レッド”ムーアがいました。
胸のABCは、チーム名の略です。
マニア向け。オススメ度★★★
←ニグロリ−グジャージー(Baltimore Black Sox)
1923ー1929年、1932ー1934年の10年活動のチーム。
イースタン・カラード・リーグの創設時のチームでもあります。
1929年「100万ドルの内野陣」といわれ
アメリカン・ニグロ・リーグチャンピオンに
勝率.700でなりました。
マニア好み。オススメ度★★★