ウイニング!−アール・ウィーバー 


ボルティモア・オリオールズの名物監督アール・ウィーバーが
1982年のシーズンをもって勇退しました。

1956年にマイナー最下級のD級で監督に25歳で就いてから
なんと27シーズンにもわたって監督を続けて来ました。

1968年7月11日に頂点の大リーグ・オリオールズの監督に就任して、
そこから実に15年間も指揮を取り続けました。

「さすがにもうくたびれた。引退したらマイアミ近郊の家で好きな庭いじりでものんびりとやりたいよ」

今季の最終4連戦の対ミルウォーキー・ブリューワーズ戦。
全勝すると奇跡の大逆転劇的地区優勝でプレーオフへ、となるはずだった。
3連勝したものの最後の最後で力尽きて、有終の美を飾ることは出来なかったのは残念だったでしょう。

しかし、ワールドチャンピオンが1度、アメリカン・リーグ優勝4回。
でも、なんといっても凄いのが・・・・。

マイナー時代からを含めて、な、なんと、25シーズン連続勝率.500以上というもの。
どうです?すごくなくないですか?(日本語が・・・)
詳しく調べたわけではないですが、おそらくトップのほうだと思いますけど。

このウイーバーについて、故パンチョ伊東さんのコメントがあります。

「わたしがはじめてウイーバーの姿を目にしたのは、1968年8月のこと。
その前月に前任者バウアーのあとを継ぎ、コーチから昇格したばかりのころだった。

オ軍のB・ロビンソン三塁手が左中間に大きな当たり。
スタンドに入ったと思った瞬間、ボールはフィールドにはね返った。

最前列のファンが立ち上がり、捕球しようとして、ポロリとやったのだ。

そのときわたしはすぐそばにいたので、本塁打ということはすぐわかったが、
二塁塁審の判定は二塁打。

三塁側ダグアウトから赤い顔、小太り、明大島岡監督ばりの小男が
大声でわめきながらとび出して来た。

球審とホンの数秒やり合ったと思ったら、判定が変わって本塁打。
ものすごく元気のいい監督だナ、という印象がつよかった。

これがわたしとウイーバーとの初めての出会いであった。」ということ。

パンチョさんは、明大島岡監督似と言っていますが、
わたしには、パンチョさん似だと思いますが・・・。いかが?

さて、このあと、ウイーバーは最強オリオールズを連れて来日します。

1971年にウイーバーは、ボルチモア・オリオールズをひきいて来日します。

71年はシーズン101勝でリーグ優勝して、
20勝投手が4人も出し、日本でも12勝2敗4分けと強さをみせつけた。

フランク・ロビンソン、ブルックス・ロビンソン、ブーグ・パウエルという
スーパースター軍団でした。

ちなみに後にこの中に、太平洋クラブに入った ドン・ビュフォード、
巨人に入ったデイブ・ジョンソンがいました。

来日したウイーバーにパンチョさんはこう尋ねました。
「監督として一番大切なのは何ですか?」

ウイーバーはこう言ったといいます。
「選手をいつもハッピーな状態にしておき、楽しみながらプレーさせるようにすることさ」と。

これが、名将といわれる人の言葉です。
やはり、原点である「PLAY」=「遊ぶ、楽しむ」ということを大事にしています。

1969年から71年まで3年連続ア・リーグ制覇。

惜しくも世界一は逃していますが、
ウイーバーの絶頂期だったでしょう。

選手をハッピーな気分でプレーさせることを
モットーにしていたものの、
ある特定の選手とは気が合わないこともありました。

大リーグでも有数の捕手になったリック・デンプシー。
彼はベンチでも近くには寄らず、
投手交代の時もほとんど話しません。

一番仲が悪いといわれているのがエースのジム・パーマー。
パーマーも公然と監督批判をしますが、
ウイーバーも「おれの髪が白くなるのはヤツのせいだ」てな具合い。

ですが、ウイーバーが引退した82年まで
パーマーもオリオールズ一筋で15年間(実質14年)
苦楽を共にしています。

日本では、選手が監督(しかも、名監督)を公然と批判するなんてのは
ちょっと考えられません。(最近は違う?)

まあ、こういった事件もスケールが違うのが大リーグなんです。

ウイーバーと仲が悪いのは選手だけではありません。
アメリカン・リーグの審判全員と敵対関係にありました。

1968年7月にオリオールズ監督に就任以来、
引退するまでに実に86回の「退場」をくらっています。

一番ひどいのが、試合前のメンバー交換でプレートに集まったときに
前日のプレーに文句をつけて、試合前に「退場」というもの。
笑っちゃいますね。

たばこが好きで、いつもプカプカ。
ダッグアウトで吸ってるのを見付かって「退場」(ルールでアウト)

特に仲が悪かったのが最年長審判のビル・ハラー。
ハラーの弟がタイガースの捕手をしていたため、
「弟のチームにひいきしてるだろう」などと、やたらに文句をつけていました。

当然のごとく「退場!」

いやはや、トラブルメイカーを地でいく人だったんですね。
周りはたまったもんじゃありませんて。。。。

1979年(昭和54年)シアトルで開催されたオールスターゲームに
出場したア・リーグ、ナ・リークの選抜チームが来日。

アとナの対抗戦を行いました。
結果は、ナの4勝2敗1分けでした。

ナ・リーグの監督はドジャースのトム・ラソーダ。
ア・リーグの監督がウイーバーでした。
そのときに同行した審判がビル・ハラー。

横浜スタジアムでの話。
この時もダッグアウトでうまく隠しながら
タバコをプカプカ。

そうこうしている内にウイーバーがハラーをいつもの様にやじった。
その瞬間に「退場!」

普通ならダッグアウトから姿を消すところですが、
全く意に介さずにそのまま座り続けているではありませんか。。。。

退場宣告したハラーもウイーバーをチラチラみるものの、平然としたもの。
とくにナ・リーグのラソーダもなにもせず。

そのまま試合終了まで退かず。

まあ、大リーグのレギュラーシーズンなら、ありえない光景でしょうね。

あちらは、こういうことには厳格ですから。。。。

エンターテイメントを全員が心得ているということでしょうか。

何事も「PLAY(楽しむ)」ことが大事なようです。

こんな破天荒なウイーバーでしたがファンには人気がありました。

「彼の選手を操る技術にはしびれます。
監督になりたての頃はバントを多用したがったんですが
選手の反発をみて。すぐに切り替えたあたりは頭がいいですよ。
逆にバント嫌いになりましたから。」
と古くからのファンは分析しています。

有名なのが、データを駆使してツープラトン・システムを用いたことで
“強力投手陣と3点本塁打”を勝利の秘訣としていました。

1979年な大リーグ最優秀監督賞に輝き、
引退にあたり本拠地メモリアル・スタジアムの左翼後方の
通路に「ウイーバー・ウエイ」という名前がつけられました。

この名誉な出来事に本人はただ涙。
感激屋なんですよ。

他球団の監督という噂は否定して
「わたしの野球生命はオリオールズとともに燃えつきた」とコメント。

もうこれだけの面白い(?)人は出てこないかもしれません。

ボルチモアの名物がひとつなくなりました。

PS:実は復帰はないだろうといわれていたものの、
85年途中に復帰します。
そのへんの話は、また後日ということで。。。


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