今日の「ちょっと昔のMLB」日記


mlb.comより管理人が勝手に翻訳!
誤訳の嵐か??さて、どんなもんでしょうか?

プチトリビアなんてのも加えてみました。

1968年5月31日


満塁でサンフランシスコのディック・ディーツにぶつけた時、
ドン・ドライスデールの44イニング連続無失点は途切れます。
しかし、審判のハリー・ウェンデルシュテットは、ディーツが投球を
避けなかったと判定し、バッターボックスに戻るように命じます。
ドライスデールは、ピンチを切り抜け58回2/3の無失点記録を
作りました。

★プチトリビア

コントロールが身上のドライスデールだったが、激しい内角攻めは有名で
1961年には20死球も記録している。
14年のキャリアでオールスター8回出場し、19.1イニングと19奪三振は
いまでも史上1位の記録です。

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1956年5月30日


ニューヨーク・ヤンキースのミッキー・マントルは、
今季第20号本塁打をはなちます。
その一打は、ヤンキー・スタジアムの場外に飛び出さんばかりの
勢いでアッパー・デックの正面に当たりました。
数人の評論家達は、もしそれが正面に当たらなければ、600フィート
以上飛んでいたと計算しました。

★プチトリビア

1956年のマントルは、打率.353、52本塁打、130打点で三冠王。
そしてアメリカン・リーグMVPにも輝いた、脂の乗り切った年でした。

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1989年5月29日


フィラデルフィア・フィリーズの強打者マイク・シュミットが
大リーグからの引退します。
間違いなく偉大な三塁手のシュミットは、18年間で
548本塁打を放ちました。
かれは、3回のMVP,10度のゴールドブラブ賞、12回の
オールスターチームに選出されました。
1995年栄誉殿堂に選ばれました。

★プチトリビア

さらに本塁打王8回、打点王4回、得点王1回、最高出塁率3回
も受賞して、89年5月に引退したが、その年のオールスターにも
選出されるほどの人気、実力を兼ね備えたスーパースターでした。

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1951年5月28日


ニューヨーク・ジャイアンツの新人、ウィリー・メイズは
ボストン・ブレーブスのウォーレン・スパーンから大リーグでの
初安打となる本塁打を放ちます。
「セイ・ヘイ・キッズ」は、打率.274、20本塁打、68打点を
あげて、ナショナル・リーグ新人王に輝きました。

★プチトリビア

メイズもジャッキー・ロビンソンが大リーグの壁を壊してくれたおかげで
黒人リーグからニューヨーク・ジャイアンツへ入団した。
昇格後は12打数無安打など苦しんだが、最終的には新人王になった。

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1937年5月27日


カール・ハッベルは、ニューヨーク・ジャイアンツが3−2で
シンシナチ・レッズを破った時、24試合連続勝利を得ました。
ハッベルは、将来殿堂入りのメル・オットが9回に本塁打して
勝利を助けられました。
しかし、ハッベルの連続記録は、4日後ブルックリン・ドジャースが
ジャイアンツを10−3で下し、途切れました。

★プチトリビア

「キング・カール」ハッベルは、前年26勝、防御率2.31で16連勝で閉幕。
翌37年は開幕から8連勝で、合計24連勝の大記録をつくりました。

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1959年5月26日


ピッツバーグ・パイレーツのハービー・ハディックスは、
ミルウォーキー・ブレーブスに対して、12回までパーフェクト投球を
しましたが、13回に負けます。
フェリックス・マンティーヤをエラーで出し、パーフェクトが途絶えた後に
ハンク・アーロンを歩かし、ジョー・アドコックに本塁打されます。
アドコックガベース上でアーロンを追い越し、両者がアウトを宣告されたが
マンティーヤの得点は認められて、1−0でブレーブスが勝利しました。

★プチトリビア

ハディックスは、新人で20勝で6完封したが新人王投票では2位。
この年の新人王は、黒人リーグから入ったジム・ギリアム。
打率.278、6本塁打、63打点、21盗塁の普通の成績だったが
17三塁打が1位、新人記録の100四球で受賞した。
新人からツイてなかったのかもしれない、ハディックスだった。

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1935年5月25日


ベーブ・ルースは、彼の比類なきキャリアで最後の
3本塁打(712,713そして714号)を放ちます。
ボストン・ブレーブスでプレーしていたルースは、
この3本に二塁打を加えますが、11−7で
ピッツバーグ・パイレーツに敗れます。
ルースの714本塁打は、39年後にハンク・アーロンに
破られるまで大リーグ記録となっていました。

★プチトリビア

34年の秋に日米野球で来日。
帰国後にヤンキースから解雇されてブレーブス入り。
この最後の714本目は、推定180m飛んだといわれています。

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1935年5月24日


大リーグ史上初となるナイト・ゲームが、シンシナチの
クロスリー・フィールドで行われます。
フランクリン・デライノ・ルーズベルト大統領がホワイトハウスで
ボタンを押し、球場は点灯されました。
試合前のセレモニーの後で、地元レッズが2−1で
フィラデルフィア・フィリーズを破りました。

★プチトリビア

この頃のレッズは、お世辞にも強いとはいえず、
31年からずーっと最下位の8位で35年はこのお陰(?)で6位。
36年5位まで上げるも、37年はまた最下位へ転落しました。

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1999年5月23日


ボストン・レッドソックスのトム・ゴードンは、
ミネソタ・ツインズから10−8で勝利し、50連続セーブ機会成功の
彼の大リーグ記録を更新します。
6月5日にアトランタ・ブレーブスが9回に彼に負けをつけるまで
ゴードンの記録は54までのびました。

★プチトリビア

98年に46セーブでセーブ王になったが、99年は
この記録の後、ヒジを痛めてわずか11セーブにとどまった。

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1969年5月22日


アトランタ・ブレーブスの強打者、ハンク・アーロンは、
彼の大リーグキャリアで初めて、代打と交代します。
ニューヨーク・メッツに15−3と圧倒したため
バックアップ外野手のマイク・ラムが7回にアーロンに
代わり、二塁打を放ちました。
アーロンは、代打と交代するまで9015打席に入りました。

★プチトリビア

「精密機械」といわれたアーロンは、首位打者2回、最多安打2回
本塁打王4回、打点王4回、得点王3回、さらにゴールドグラブ3回
通算240盗塁で63年には30−30(41本塁打、31盗塁)も達成し、
そして23年間でオールスター21回と走攻守全てに「精密機械」でした。

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1930年5月21日


ニューヨーク・ヤンキースの強打者、ベーブ・ルースが
フィラデルフィア・アスレチックスとのダブルヘッダー第一試合で
3本塁打を放ち、9回の打席では右打席に入ります。
ジャック・クウィンが2ストライクからの投球を投げる時に
素早く左打席に入りなおしますが、バンビーノは三振に倒れます。

★プチトリビア

破天荒な性格同様にやることもど派手なのがルース。
1927年には頭めがけてきた投球を本塁打。
これがシーズン60号の新記録だったり、32年のワールドシリーズの
予告本塁打などエピソードはことかかないルースです。

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1945年5月20日


セントルイス・ブラウンズの片腕の外野手、ピート・グレイが
彼の大リーグキャリアの中で最も素晴らしい一日を楽しみます。
グレイは3回のスーパーキャッチを見せ、4安打2打点と
決勝の得点をあげるなどして、ヤンキースとのダブルヘッダーに
連勝しました。

★プチトリビア

左腕一本のグレイでしたが、1944年のマイナーで5本塁打。
130m以上飛ばしたものもあったということです。
自慢は足と守備で、やはりマイナーで68盗塁しています。
昇格した45年は、第二次世界大戦時で選手が不足していたことも
あり、1年間だけだったが大リーグでプレーすることが出来ました。

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1962年5月19日


セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルは、
ロサンジェルス・ドジャースのロン・ペラノスキーから安打して
ホーナス・ワグナーの持つ3430安打のナショナル・リーグ記録を
破ります。
「スタン・ザ・マン(男の中の男)」1963年に3630安打で引退しますが
これは、タイ・カッブに次いで生涯2位の記録でした。

★プチトリビア

独特な巻きつくような打撃フォームで安打を量産したミュージアル。
通算3630安打ですが、ホームとロードでちょうど1815安打づつという
珍記録も持っています。

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1912年5月18日


デトロイト・タイガースは、フィラデルフィア・アスレチックス戦で
代替プレーヤーで試合を行います。
19人の選手が、最近のタイ・カッブの休職に抗議のストライキを
行い、タイガースはアスレチックスに24−2で敗れます。
タイガースのラインアップには、地方のセミプロ選手が入っていました。

★プチトリビア

「球聖」「野球の神様」「ジョージア・ピーチ」など様々な呼び名がある
大リーグ史上で欠かせない一人です。
しかし、彼の葬儀には球界関係者が4人しか参列しなかったとか。。。
こうした悪評高い彼も、1936年の第一回殿堂入りにはベーブ・ルースを
しのぐ最多得票で選ばれるなど、選手としての評価は高かった。

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1998年5月17日


デビッド・ウェルズは、1956年のワールドシリーズでの
ドン・ラーセンの傑作以来でヤンキー・スタジアムにおいて
初となるパーフェクト・ゲームを達成します。
ウェルズは、スタンドでラーセンが観戦している中、
ミネソタ・ツインズを10奪三振で4−0で抑えました。

★プチトリビア

1982年のドラフト2位でトロント・ブルージェイズへ入団。
デビューは、87年。個性派左腕はお騒がせ男でもあり、
ビッグ・マウスで首脳陣らと対立が多く、ブルージェイズから
タイガース、レッズ、オリオールズ、ヤンキース、またブルージェイズ
ホワイトソックス、またヤンキース、パドレス、今季はレッドソックスと
移籍を繰り返すジャーニーマンですが、各チームでローテーションを
守りつづけているのは、流石です。
また、ベーブ・ルースの大ファンとしても有名です。

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1954年5月16日


テッド・ウィリアムスは、鎖骨骨折からボストン・レッドソックスの
ラインアップに復帰し、デトロイト・タイガース相手のダブルヘッダーで
9打数8安打、2本塁打、1二塁打、7打点をと打ちました。
彼の印象的な活躍も、チームを助ける事が出来ず、7−6、9−8と
2試合とも敗戦でした。

★プチトリビア

この年は打率.345をマークしたが、当時は規定打数で計算したため
打率.341のボビー・アビラが首位打者タイトルとなった。
117試合で386打数133安打で何より四球数が多かったために
タイトルを取る事が出来なかったという不思議な話。

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1973年5月15日


カリフォルニア・エンジェルスのノーラン・ライアンは、
通算7度のノーヒッターの最初の試合を記録します。
ライアンは、カンザスシティに対して3−0で勝利し
12の三振を奪いました。
興味深いのは、ロサンジェルス・ドジャースで
サンディー・コーファックスの最後のノーヒッターを受けた
ジェフ・トーボーグが、ライアンの最初の傑作も受けていました。

★プチトリビア

前年にメッツからエンジェルスに移籍した2年目。
この73年は、シーズン最多奪三振383というとてつもない
大記録も打ち立てています。

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1967年5月14日


ニューヨーク・ヤンキースのミッキー・マントルが、
ボルチモア・オリオールズのステュー・ミラーに対して
本塁打を放ち、500本塁打クラブ入りをします。
マントルは、ベーブ・ルース、ウィリー・メイズ、ジミー・フォックス
テッド・ウィリアムス、メル・オットに次いで、6人目の大リーガーに
なりました。

★プチトリビア

通算536本塁打は、スイッチヒッターとして最多記録です。

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1976年5月13日


カンザスシティ・ロイヤルズのジョージ・ブレットは、
ロッド・カルーによって作られた5試合を塗り替える
6試合連続3安打を記録します。
ブレットは、この間、30打数18安打9得点をマークします。
しかし、彼の連続記録は翌日の2打数0安打で終わります。

★プチトリビア

ちなみにこれは、いまだに大リーグ記録で、
4安打になると1925年7月3日までの4試合を記録した
ミット・ストック(ブルックリン)が大リーグ記録です。

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1970年5月12日


シカゴ・カブスのアーニー・バンクスは、500本塁打クラブへ
入る大リーグ史上9人目になります。
将来、殿堂入りの彼は、アトランタの右腕パット・ジャービスから
リグレー・フィールドの左翼ブリーチャー席に打ち込み、
チームを4−3の勝利に導きました。

★プチトリビア

1958、59年の連続MVPは、ナ・リーグ史上初の出来事でした。

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1972年5月11日


ニューヨーク・メッツは、チャーリー・ウィリアムス投手と
5万ドルと交換でサンフランシスコ・ジャイアンツから
将来、殿堂入りのウィリー・メイズを獲得します。
3日後、メッツでデビューした41歳の伝説の人は、
前チームに対して決勝の本塁打を放ちました。

★プチトリビア

現役最後の73年には、ワールドシリーズにも出場。
7打数2安打という成績でした。

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1970年5月10日


アトランタ・ブレーブスのホイト・ウィルヘルムは、
1000試合登板をした大リーグで最初の投手となります。
ナックルボーラー右腕は、セントルイス・カージナルスに
6−5で負けた試合を無失点で抑え、1985年に栄誉殿堂に
選ばれました。

★プチトリビア

遅咲きで大リーグデビューは、28歳の時、ジャイアンツでした。
この年、リリーフだけで15勝して、71試合と勝率.833、防御率2.43の
3部門で1位ながら、新人王には選ばれなかった。

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1984年5月9日


シカゴ・ホワイトソックスとミルウォーキー・ブリューワーズは、
ハロルド・ベインズが延長25回に放った本塁打によって、
前日に始まった試合をホワイトソックスの7−6の勝利で終わらせます。
延長25回は、大リーグ記録に1イニング足りなかったものの、
試合時間8時間6分は大リーグ最長記録となっています。

★プチトリビア

最長イニングは、1920年5月1日のブルックリン対ボストン戦で、
この試合は1−1で引き分けたようです。
昔は引き分けがあったんですね。

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1968年5月8日


将来、殿堂入りのジム「キャットフィッシュ」ハンターが、
46年間でレギュラーシーズンにおいてパーフェクト・ゲームを
達成したアメリカン・リーグで最初の投手になります。
ハンターは、ミネソタ・ツインズに11奪三振をとり、自ら3打点をあげて
4−0で勝利しました。

★プチトリビア

1972〜74年のアスレチックスの3連覇時のエースとして
71年から5年連続20勝をあげました。
ワールドシリーズには、7度出場して4勝0敗1セーブと大試合にも
強さを発揮したが、不治の病「ゲーリック病」で99年に死去しました。

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1959年5月7日


ドジャースは、記録的な93,103人のファンを集めて、
「ロイ・キャンパネラ・デイ」を行います。
悲劇の自動車事故が彼の脊髄を損傷させて、半身麻痺に
なるまでに、3度のMVPを獲得し、ドジャースのホームプレートを
守りつづけました。
★プチトリビア

活躍したのは10年間だが、242本塁打、1161安打で
MVPを3回受賞は驚異的でした。

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1931年5月6日


将来、殿堂入りのウィリー・メイズがアラバマ州
ウェストフィールドで誕生します。
ニグロ・リーグで短期間プレーした後、1951年に
ニューヨーク・ジャイアンツで大リーグデビューします。
22年のキャリアで通算打率.302、660本塁打(当時は
大リーグ史上3位)を打ちました。

★プチトリビア

この他に338盗塁で4度の盗塁王とゴールドグラブ12回の
守備でも魅せられる万能選手の一人でした。

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1904年5月5日


ボストン・レッドソックスのエース、サイ・ヤングは、
フィラデルフィア・アスレチックス相手にパーフェクト・ゲームを
達成します。
若い将来、殿堂入りのルーブ・ワッデルと投げ合い、
3−0で勝利しました。
これはピッチング・マウンドが後ろに6フィート下げられて、
60フィート6インチの新しい規則になってから初のパーフェクト
・ゲームになりました。

★プチトリビア

前人未踏の通算511勝のヤングは、生涯に3度のノーヒッター。
その内の一度がこのパーフェクト・ゲームでした。

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1973年5月4日


アトランタ・ブレーブスのラルフ・ガーが1試合7打席の記録を
つくります。1900年以降では最高記録です。
試合は20回まで続いた試合となりました。

★プチトリビア

大リーグ記録は、8打席となっていて、一番最近が1897年6月29日の
バリー・マコーミックですが、全部で18人が記録しています。

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1964年5月3日


ヨミウリ・ジャイアンツのサダハル・オーは、ハンシン・タイガース戦で
1試合4本塁打のジャパン・リーグ新記録をつくります。
メジャーでは15人がこの記録を達成していて、一番最では
トロント・ブルージェイズのカーロス・デルガドが、2003年9月25日に
記録しました。

★プチトリビア

ナ・リーグが10人、ア・リーグが5人です。
ナがボビー・ロウ、エド・デラハンティ、チャック・クライン、ギル・ホッジス、
ジョー・アドコック、ウィリー・メイズ、マイク・シュミット、ボブ・ホーナー、
マーク・ウィッテン、ショーン・グリーンで、アがルー・ゲーリック、パット・シーレイ、
ロッキー・コラビト、マイク・キャメロン、デルガドです。

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1939年5月2日


ルー・ゲーリックの2130試合連続出場が終わります。
ジョー・マッカーシー監督にゲーリック自身が、これ以上
プレーすることが出来ないのでラインアップから外すように
いいました。
後に、医師はALS(筋肉に影響を及ぼす致命的な病気)と
診断しました。
「アイアン・ホース」は二度とプレーすることはありませんでした。

★プチトリビア

同年7月4日の引退セレモニーでのスピーチは、
語り草になっています。
背番号4は史上初の永久欠番となりました。

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1991年5月1日


オークランド・アスレチックスのリッキー・ヘンダーソンは、
殿堂入りのルー・ブロックが保持していた記録を破り、
通算939個目の盗塁を記録しました。
ニューヨーク・ヤンキースのマット・ノークス捕手に対して
三塁盗塁を成功させたときにヘンダーソンの歴史的記録
達成の瞬間が訪れました。

★プチトリビア

ちょうど1年後の92年5月1日には、1000個目の盗塁を
決めました。
昨年は独立リーグで1年を費やしましたが、いまだ現役(のはず)です。