今日の「ちょっと昔のMLB」日記

mlb.comより管理人が勝手に翻訳!
誤訳の嵐か??さて、どんなもんでしょうか?


すいません!15日分です!

1908年6月30日

ボストン・レッドソックスのエース、サイ・ヤングは、
ニューヨーク・ハイランダースを8−0で封じた時、
彼の栄誉殿堂キャリアで3回目のノーヒッターを達成します。
1990年に43歳のノーラン・ライアンがノーヒッターをするまで
41歳のヤングは、ノーヒッターの最年長記録でした。

サイ・ヤング

★プチトリビア

通算511勝の不死身の男、サイ・ヤングは、生涯で3度の
ノーヒッターを記録。そのうち、1904年5月5日は、完全試合でした。

1990年6月29日

オークランド・アスレチックスのデイブ・スティワートと
ロサンジェルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラは
共にノーヒット・ゲームを行います。
スティワートがトロント・ブルージェイズを5−0、
バレンズエラはセントルイス・カージナルスを6−0に封じます。
二人の投手が同じ日にノーヒット・ゲームをした最初の出来事に
なります。

デイブ・スティワート フェルナンド・バレンズエラ

★プチトリビア

1990年はノーヒッターが多かった年で、9回もありました。
スティワートは12奪三振、バレンズエラは7奪三振でした。

1957年6月28日

コミッショナーのフォード・フリックは、シンシナチファンが
投票箱に不正投票をしたという騒動の中、ナショナル・リーグ
オールスターロースターを振り分けます。
最終結果は、ほとんどがレッズのメンバーが先発で選ばれ、
フリックは、ガス・ベルとウォーリー・ポストの代わりに
ハンク・アーロンとウィリー・メイズを先発させました。

フォード・フリック

★プチトリビア

正確に書くと、締め切り間際に20万票がレッズ選手に入り、
一塁を除く7ポジションでレッズが独占。
唯一、ポジションを譲らなかったのが、スタン・ミュージアルでした。

2000年6月27日

ロサンジェルス・ドジャースは、大リーグから引退を発表した、
41歳のオーレル・ハーシハイザーをリリースします。
彼は18年のキャリアで204勝と3回のオールスター出場をしました。
彼のベスト・シーズンは1988年で、59回連続無失点という新記録を
作り、ナ・リーグのサイヤング賞を受賞しました。

オーレル・ハーシハイザー

★プチトリビア

88年は、23勝、15完投、8完封、267イニングの4部門で1位。
ワールドシリーズでも、第2戦で完封、第5戦で完投と2勝をあげて
MVPに輝きました。

1920年6月26日

高校生選手権試合でルー・ゲーリックという名の17歳の
選手がリグレー・フィールドの場外にグランド・スラムを
放ちました。
ゲーリックは、コロンビア大学へ進みますが、それをやめて
2年生の後にニューヨーク・ヤンキースと契約しました。

ルー・ゲーリック

★プチトリビア

ゲーリックの背番号は「4」。
3番ベイブ・ルース、4番ゲーリックと打順で背番号がついていました。
そしてヤンキースの「4」は、史上初の永久欠番となりました。

1971年6月25日

ノースウェスト・リーグのベンド・レインボーズで
俳優のカート・ラッセルが二塁打とシングルで
プロ野球にデビューしました。
ラッセルは、肩のケガでキャリアを終えるまでに
ニ塁手と遊撃手で打率.313を記録しました。

カート・ラッセル

★プチトリビア

けっこうアメリカのアクターには、野球が上手な人がいて、
ケビン・コスナーやトム・セレックなどもマイナーでやったことが
あるとか、ないとか。。。
マイケル・ジョーダンもバロンズでやってましたね。
ノースウェスト・リーグは、ショート・シーズンのA級クラスです。

1993年6月24日

カールトン・フィスクはボブ・ブーンが保持していた、
2225試合を破る捕手で2226試合出場をしました。
フィスクは、また捕手として351本塁打という記録もあり
2000年に殿堂入りを果たしました。

カールトン・フィスク

★プチトリビア

捕手として351本塁打は、昨年マイク・ピアッツァに抜かれるまで
歴代1位で、今でもアメリカン・リーグ記録です。

1984年6月23日

ライン・サンドバーグは、彼の壮大なキャリアの中でも
すばらしい試合を作ります。
ライノは、6打数5安打、7打点を記録し、抑えのエース
ブルース・スーターから9回と10回に2本の同点本塁打を
放ちました。
このサンドバーグの活躍で、延長11回12−11で
カージナルスを破りました。

ライン・サンドバーグ

★プチトリビア

サンドバーグといえば、カブスの名ニ塁手として
1983年から91年まで9年連続ゴールドグラブ賞に輝き
89年から90年にかけて123試合連続無失策も記録。
打でも90年に本塁打王になるなど、ミスター・カブスとして
活躍しました。

1987年6月22日

将来、殿堂入りのトム・シーバーが、ニューヨーク・メッツで
カムバックを試みた後、引退を発表します。
「テリフィック・トム(恐怖のトム)」として知られたシーバーは、
311勝205敗、防御率2.86、そして3640奪三振を記録しました。
1992年に殿堂入りしました。

トム・シーバー

★プチトリビア

86年にホワイトソックスで投げたシーバーは、
87年シーズンはどこからもオファーがなく、6月にメッツの
ファームで再起を目指したが断念。引退しました。

1986年6月21日

ハイズマン・トロフィーを受賞し、最初にNFLドラフトにかかった
オーバーン大のボー・ジャクソンは、カンザスシティ・ロイヤルズと
契約する事を決定します。
彼は、フットボールをケガでキャリアを終わらせるまで、
ベースボールをパートタイムでプレーし、2つのスポーツで成功をしました。

ボー・ジャクソン

★プチトリビア

1989年のオールスターで本塁打と盗塁という珍しい記録で
MVPに輝きました。

1911年6月20日

殿堂入りのタイ・カッブは、クリーブランドのウィリー・ミッチェルから
内野安打を放ち、アメリカン・リーグ記録の30試合連続安打を作ります。
ジョージア・ピーチは、40試合連続まで伸ばし、これは1922年に
ジョージ・シスラーが41試合連続とするまでア・リーグ記録でした。

タイ・カッブ

★プチトリビア

連続試合安打の大リーグ記録は、ジョー・ディマジオの56試合連続です。
2位がウィリー・キラーの44試合ですから、これも不滅の大記録といえそうです。
イチローには、これにも挑戦して欲しいものです。

1972年6月19日

フィラデルフィア・フィリーズにトレードされた
前セントルイス・カージナルスのカート・フラッドが制限条項
の撤廃を求め、大リーグを訴えたが、米国最高裁判所は、
フラッドに敗訴の判決を下します。
判決は、野球の独占禁止の免除を支持しました。
(これは、1922年に決められました)

カート・フラッド

★プチトリビア

このフラッドの自由契約を求めた、制限(保留)条項の廃止の
裁判が、後のフリー・エージェント制導入のきっかけになりました。

1972年6月18日

カラフルなオークランド・アスレチックスのオーナー
チャーリー・フィンリーは、ベースボールで初の「口ひげの日」を開催します。
フィンリーは、父の日までに口ひげを成長させた選手には
300ドルを支払う契約をします。
レジー・ジャクソンは、口ひげでスプリング・トレーニングに
現れ、この傾向をスタートさせました。
これは、1914年のフィラデルフィア・アスレチックスの
ウォーリー・シャング以来の大リーガーでした。

チャーリー・フィンリー

★プチトリビア

フィンリーは、とにかく奇抜なアイデアで世間をアッといわせた
名物オーナーでした。
この他には、オレンジ・ボールやボール・ガールの採用、
マスコットをロバにしたり。
でも、指名打者制は今に残っているいいアイデアでした。

1978年6月17日

ニューヨーク・ヤンキースのロン・ギドリーは、
アメリカン・リーグの左腕投手の記録となる18奪三振で
カリフォルニア・エンジェルスに4−0で勝利します。
「ルイジアナ・ライトニング(ルイジアナの稲妻)」は、大リーグ史上
最も素晴らしいシーズンの一つとなる、25勝3敗、防御率1.74
248奪三振を記録しました。

ロン・ギドリー

★プチトリビア

この年、9完封、勝率.893、被打率.193と合わせて5部門で1位、
文句なしでサイヤング賞にも輝きました。(三振が2位)
ギドリーは、06年、07年とNYYの投手コーチをつとめました。

1996年6月16日

伝説のブロードキャスター、メル・アレンが83歳で死去します。
アレンは、1939年から1964年までニューヨーク・ヤンキースで
アナウンサーを務め、後には「ディス・ウィーク・イン・ベースボール」
という番組を長く続けました。
1978年、アレンは優秀な放送に携わったとして、栄誉殿堂入りの
フォード・C・フリック賞を受賞しました。

メル・アレン

★プチトリビア

フォード・C・フリックとは、元新聞記者でナ・リーグの広報部長となり、
1935年にリーグ会長になりました。
栄誉殿堂の創設を提唱し、ジャツキー・ロビンソンが登場した折には
会長として擁護しました。
そして、1951年に第3代コミッショナーとなりました。