Players Choice No.4


Fernando Valenzuela(フェルナンド・バレンズエラ) 投手 左投左打



フエルナンド・バレンズエラ メキシコ出身のスーパースター、”フェルナンド・マニア”などの流行語を生み出した
”メキシコの金太郎”や”怪童”のユニークなニックネームを持ったヒーローです。

出身地は、メキシコのエチョウワキーラという寒村で12人兄弟の末っ子として
生まれた。
メスティーソといわれる、スペイン人とインディアンの混血人種でメキシコ人口の
約60%を占めるといわれている。残りの30%がマヤやアステカなどの純粋な
インディアンで、残りは白人ということだそうだ。
家は貧しく、生活していくのがやっとであったという。学校をサボリ
野球に明け暮れる日々が続き、15歳で学校を辞めセミプロ球団で稼ぎ始めた。

その彼がある日、ドジャースのスカウトに見出され、’79年7月6日に所属球団
から引き抜かれたのである。

メキシコ野球の経験のあるボビー・カスティーヨからスクリューボールを教わり
’80年サンアントニオ(AA級)でリーグ奪三振王となった。
早くもそのシーズン終盤に19歳でデビューすることになる。
リリーフで8試合に登板、18イニングで無失点。2勝1セーブをあげる。

ウイニング・ショットはなんといってもスクリューボール。全投球数の60〜70%
も投げる。このスクリューは二種類あり、その上、デッドリー(寸分の狂いのない)
コントロールの持ち主なのである。

彼の凄さは、このスクリューと他のあらゆる球種を全く同じフォームで投げられる
ことだともいわれているが、投球フォームの連続写真を見ると、ふりかぶってから
天井に目をむいたあとに、なんと目をつぶっているではないですか。
(これも凄さのうちのひとつでしょうか?)

翌’81年は、開幕から8連勝してしまう。そのうち5つが完封で残りの3試合も
それぞれ1失点ずつというものすごい内容。ストライキが始まる6月12日までに
103奪三振で両リーグを通じてトップだった。

当時の新聞では、カリフォルニア中が強烈な大地震にみまわれたようだと
人気ぶりを報じていた。

結局、その年は、13勝7敗、防御率2.48。リーグ1位の8完封、11完投で
192イニング、180奪三振で、新人王とサイ・ヤング賞を史上初の同時受賞
した。その上にワールド・チャンピオンのリングまで手にしてしまった。
まさにアメリカン・ドリームといっていいものだった。

しかし、そのオフに彼は法外ともいえる100万ドルを要求して、驚かせた。
翌’82年はこの契約のもつれからキャンプをボイコットし、球団と真っ向
から衝突してしまったが、在籍1年足らずの選手では年棒調停を申し
立てることも出来ず、結局45万ドルでサインすることとなった。

そんないざこざがありながら、19勝13敗、防御率2.87、奪三振199の
成績で再度100万ドルを要求して、名門球団初の100万ドルプレーヤー
となった。

86年には、21勝で最多勝に輝き、完投も20で1位、奪三振も自己最高の
242と順調そのもので、その年のオールスターでは、カール・ハッベルの
記録に並ぶ5者連続三振も奪った。この年を含めて、5試合に登板した
オールスターでは1点もとられなかった。

’87年までは、7年連続12勝以上、6年連続250イニング以上を投げてきたが
疲労が蓄積したのか88年はわずか5勝どまりに。
’89〜90年は再び2ケタ勝利を挙げ、90年6月29日のカーディナルス戦で
ノーヒットノーランを達成した。だが、以前のような力強さはなく、’91年の
開幕直前に解雇されてしまう。

’92年以降は、メキシカン・リーグと大リーグを行ったり来たりしていたが、
’96年にパドレスで6年ぶりとなる13勝をあげて復活した。
だが、翌’97年のカーディナルスを最後に引退した。


ドジャース(1980〜90年)、エンジェルス(91年)、オリオールズ(93年)
フィリーズ(94年)、パドレス(95〜97年)、カーディナルス(97年)=17年

【記録】
453試合 424先発 113完投 31完封 2930回 2074奪三振 1151四球
173勝153敗2セーブ 防御率3.54

【タイトル】
新人王(81年)、サイヤング賞1回(81年)、最多勝1回(86年)、最多奪三振1回(81年)
ゴールドグラブ賞1回(86年)、オールスター6回(81〜86年)