Players Choice No.9


Carl Yastrzemski(カール・ヤストレムスキー) 右投げ左打ち


Carl Michael Yastrzemski

1939.8.22生まれ ニューヨーク州サザンプトン出身

当時のレッドソックスのスーパースターはテッド・ウイリアムス。
そのウイリアムスが1960年限りで引退。

カール・ヤストレムスキー その後の左翼に入ったのがヤストレムスキーでした。

61年にデビュー。148試合出場で打率.266、11本塁打、80打点で
正左翼手になります。

翌年も打率.296、19本塁打、94打点と成績をアップさせました。

そして3年目の63年に打率.321で早くも首位打者のタイトルをとります。
安打183、二塁打40、四球95、得点112、出塁率.419はリーグ1位でした。

1967年に金字塔をうち立てます。

161試合で打率.326、44本塁打、121打点で三冠王に輝きます。

以降、36年間三冠王は出現せず、
「最後の三冠王」といわれています。

この年のペナントレースは大激戦でレッドソックス、タイガース、ツインズの
3チームが競り合いました。

この大接戦の最後12試合でヤストレムスキーは
44打数23安打、5本塁打16打点と爆発しました。

前年10球団中9位だったレッドソックスが優勝するには
9月30日と10月1日のツインズ戦連勝が条件でした。

30日の試合では逆点の3点本塁打と二塁打を打った
ボブ・アリソンを強肩で刺したプレーがあり
2試合で8打数7安打して文句なしのリーグMVPに選ばれました。
(結局はレッドソックスは連勝、タイガースが負けて優勝)

初のワールドシリーズではチームは負けたものの(カージナルスに3勝4敗)
25打数10安打 3本塁打と打ちまくりました。

翌68年は打率.301で連続首位打者に。
リーグで唯一の3割打者という珍現象で、首位打者の最低打率となっています。

その後はケガと闘いながら、79年まで
毎年150試合前後出場し続けました。(72年を除く)

1979年9月12日に地元フェンウエイ・パークのヤンキース戦で
ジム・ビーティから3000本安打。
3万4337人の大観衆の前で 記念の一打を放ちました。

この安打でア・リーグ初となる
「3000本安打 400本塁打」の選手となりました。

大リーグでは、スタン・ミュージアル、ウイリー・メイズ、ハンク・アーロンの
ナ・リーグの3人に続き、史上4人目の快挙を達成。

また、打つだけでなく強肩で7回の最多捕殺を記録、
7回のゴールドグラフにも輝いています。

1982年、43歳にして打率.275、16本塁打、72打点をマークして
前年の大不振を吹き飛ばす活躍をみせました。

61年にデビュー以来レッドソックス一筋のまさしくおらが町のヒーロー
フランチャイズプレーヤーとしての23年間でした。

実働年数、試合数、打数、得点、安打、単打数、二塁打数、左翼手の年間本塁打、
塁打数、長打、打点が球団記録として残っています。

1989年、資格初年度で殿堂入り。

もちろん背番号8は永久欠番になっています。

「ボストン」「フェンウエイ」ときたら「ヤス」でした。

1961年〜83年ボストン・レッドソックス=23年

3308試合 11988打数 3419安打 646二塁打 59三塁打 452本塁打
1844打点 168盗塁 1816得点 1845四球 1393三振 打率.285

MVP1回(67年)首位打者3回(63、67、68年)、最多安打2回(63、67年)
本塁打王1回(67年)、打点王1回(67年)、得点王3回(67、70、74年)
最高出塁率5回(63、65、67〜68、70年)、ゴールドグラブ7回(63、65、67〜69、71、77年)
オールスター18回(63、65〜79、82、83年)